DoubleMintGum

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台湾映画と韓国映画

 昨日見た映画。
『台北愛情故事』1993年/台湾
出演:呉家麗、王渝文
シングルマザーの主人公(王渝文)の実家が、木偶(人形。台湾なので布袋戯だろうと思われる)の劇団、という設定だったらしい。彼女の「自閉症」の息子が人形にだけは感情を表すあたりはホロリだったけど。一体何で急に死んだの???よく判らない・・。

『五月ー夢の国』1988年/韓国(自主製作映画)
監督:張充[火玄](チャン・ユニョン)、張東洪(チャン・ドンホン)、李恩(イ・ウン)
 これぞこの日の目玉!
 稚拙な部分が目立つ作品だ、と言われていたから覚悟していたんだけど、思っていたより遥かに鑑賞に耐えうる出来。このレベル以下の商業作品なんて山ほどある。
 この時代に韓国で、光州事件をここまでハッキリと、よく描けたものだなあ。弾圧の厳しさなどを察するに、凄いなあ〜その気合いは。
 で、やはり『JSA』を見てからこれを見ると、発見が多い。
よりテーマが明確である。良く言えばストレートな情熱で、悪く言えば荒っぽすぎる。しかし、おかげで凄〜く判り易い内容になってるんだな。なる程、当時の韓国内上映で(自主作品では)異例の観客動員を果たした、というのも納得。

何より私は、数年前「スクリーン・クオーター制度」を死守すべく、頭を丸めて抗議運動をする韓国の監督たちの姿にヒステリックなものを感じてしまったんだ。でも、何故あそこまでするのかがやっと判った気がする。
科白の中で度々出て来る「アメリカの経済侵略」物も映画も、アメリカ(ハリウッド)に侵略されてなるものか!っつー戦いだったんだね。だからといって国粋主義に走られるのは勘弁してくれ!なんだが。「グローバル化」という言葉の胡散臭さを嗅ぎとれないとやばい。
 基地に(経済的に)依存しなければ生きて行けないようにするってやり方、今も尚、沖縄で続いているしなあ。セックスワーカーやホームレスの置かれてる立場、構造とも抵通してると思う。
 天安門事件しかり、光州事件しかり。体制が隠蔽しようとするものを明らかにする。人々が自分の事を、自分の言葉で語れる。再三再四、李恩が言う「健康、健全」って意味はこの事じゃないかな、きっと。
 この作品、上っ面にとらわれず本質を見る事が重要。

 

1991年に日本でわずか一週間だけ公開された韓国映画がある。
自主映画製作集団「チャンサンコッメ(チャンサン岬の鷹の意。朝鮮半島が外国から侵略を受ける度、長山串の岬から鷹が現われ国土を守ったという伝説に基づいて名付けられた。ちなみに長山串は現在北朝鮮にある)」の作品。
主要メンバーは、今や韓国商業映画界を担う監督、プロデューサー。
共同監督のひとり、張充[火玄](チャン・ユニョン)は『接続(ザ・コンタクト)』『カル』の監督。
今日本公開されている『魚と寝る女』のプロデューサーは李恩(イ・ウン)
日本公開当時はアジア(韓国)映画ファンよりも、いわゆる「運動系」な人々しか動員出来なかった様子である。
「光州市民軍から逃亡した学生(主人公)と、彼の潜伏先である米軍基地の街に住む娼婦やチンピラ達の青春群像」なストーリー。当時これを見た小川紳介が驚いたというのも判る気がする稚拙な展開。なのに韓国では異例の観客動員の多さだったという。
何故?確かに、やたら下手なんだけど、凄くひっかかる作品ではある。


 最近話題になった韓国映画で『JSA』があるが、あれのプロデューサーが何を隠そう、この映画の監督の一人、李恩(イ・ウン)なのだ。
『JSA』を見てからこれを見るとよりテーマが明確である。良く言えばストレートで、悪く言えば荒っぽすぎるのだが、しかし、おかげで凄ーく判り易い内容になっている。
『五月』だけを見たなら「ああ、なんて鬱陶しい映画だろう」と感じたかもしれないが、先に『JSA』を見ていると「これは同じ映画だ」と思える。
展開やテーマは全く変わっていないが、表現方法は数段洗練されている。役者や監督以上に、プロデューサー李恩(イ・ウン)の個性や主張がはっきり出ているのを、確かに感じた。
「国家」と「国家」の間で弄ばれる人々。日常で接して付き合うぶんには相手の宗教や思想、文化の違いはコミュニケーションで越えられる。お互いを尊重しあうことで生まれる「異文化共生」。ところがそこに「国家」が入ってくることによって生まれてしまうのが「異文化強制」だ。押さえつければ跳ね返そうとする。更に強く押さえる。これではコミュニケーションは不可能になる。
公開当時のパンフレット、そして今年NHKにて放送された韓国映画の特集番組などでの李恩(イ・ウン)の発言を見ると、だんだんこの人に対する興味が沸いてくる。
彼は「健康な映画」とか「健全な環境」などとよく口にする。もちろんそれは「子供からお年寄りまで安心して見れる」なんて「健全」さを指して言っているのではない。
天安門事件しかり、光州事件しかり。体制が隠蔽しようとするものを明らかにする。人々が自分の事を、自分の言葉で語れる。再三再四、李恩が言う「健康、健全」って意味はこの事じゃないかな、きっと。
「国家」は往々にして私達から語るべき「言葉」を奪う。
『五月』も『JSA』も、誰が正しいとか、勝ったとか、単純明解な答えを出す事を避けている。自分を守る為に逃げる、嘘をつく、巨大な圧力の前で立ち尽くす「市民」の視点に立っている。
李恩(イ・ウン)て筋金入りの民主主義者なんだなあ。彼の立つ位置がハッキリ見えてくる。 体制が求める「完璧に整った」もの全てに「NO」を突き付けているようだ。 でこぼこでゆがんでいる「規格外」なもの、勝手に生きているもの それが本来の「健康、健全」なんだ。凄く個人的に共感出来ます。 いいなあ、こういう人に出会う為に映画見てるんだよー、 と嬉しくなった。
彼は「現実を変える為に映画を作っているわけではない、でも映画で現実は変わる」と言っている。以前ビョン・ヨンジュ(『ナヌムの家』シリーズの監督)も同じ事を言っていた。この二人には共通の姿勢を感じるなあ。
私は、1999年6月「スクリーン・クオーター制度」を死守すべく、100名以上の映画人が頭を丸めて抗議運動をする姿にヒステリックなものを感じてしまったのだった。(「スクリーン・クオーター制度」とは、韓国内全ての映画館に対して年間106日以上は国産映画上映を義務付ける制度。韓国映画産業を守る法律なのだが、アメリカはこの制度の緩和を要求してきたのだ。)しかし、この映画を見たら、何故あそこまでするのかがやっと判った気がする。
この映画は『JSA』とセットで見るべし・・・・っていっても、もう日本で上映はないだろーなー。当時見た事がある人はいるのだろうか。
2001年9月13號:追記